「性奴隷」などどこにもいなかった

小野田寛郎

「従軍慰安婦」は造語

首相の靖國神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様、多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

戦後六十年、大東亜戦争に出征し、戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫せんぶ工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知のとおりである。

大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」はたしかに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」や「従軍記者」という言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」という言葉は聞いた者も、また使った者もいまい。私も聞いたことがない。それは日本をおとしめるために後日、作った造語であることはたしかだ。

淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ(中国)・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいたはずであるが、売春は誰も他の人の見ている所でするはずのないことだけに、仲間同士の話はあからさまでも、公衆の面前で手柄顔に大声で事細かに話せる者はまずいないだろう。陰で笑い者にされるのがオチだからだ。

そのためか、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。「ピー」は中国戦線で兵士たちが隠語として使ったのだから語源は中国語で、女性の秘部の意で戦場からの帰還兵から日本内地にも伝わっていた。曰く、「ピー買い」である。

それはともかくとして、あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのがオチだろう。「ではなぜ、君は」と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察できる立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することができるのだ。

漢口の「慰安所」を見学

私が初めて「慰安婦」という言葉を聞いたのは、「慰安所」からだった。

昭和十四年、商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っているような街に住むことになった。

当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・第一特別区(旧ドイツ租界)・第二特別区(旧ロシア租界)・第三特別区(旧英国租界)に分かれていて、地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

日本兵の歩哨ほしょうや憲兵、安南兵の歩哨(フランス租界)、中国人の巡査もそれぞれの場所に立っていた。日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上、難民区に住まわされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入りできなかった。それだけ危険な場所だった。

私は仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられて一瞬、思い当たらずに戸惑った。しかし、看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したので、そのとおり教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出していないからだ。

私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどんその他がサービスされるのだろうと早合点していた。

ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて、一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

漢口の街の大通りには、ところどころ入り口の壁に「○○洞」「○○里」と書かれた横丁がある。日本の裏長屋に相当する住宅街である。先に私が兵隊に教えた場所の名は「積慶里」であった。

一日二十七人の客を

私たちは、憲兵に集金の用件を話して中に入り、まず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客のない暇な遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。

そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし、朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからという理由である)。

群がってきた彼女たちは、商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋のなかまで調べに来ないからである。

料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜、利用できる。料金も同額ではない。階級の上のほうが割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

半島出身者に「コチョ(伍長―下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長―兵士)か」「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は、「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、なかには「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語する強者もいた。

月給の三分の一を使った

ここで、親しくなった経営者の話を紹介しよう。

「内地人も出身地の異なる他の女の子も、体力的に大差がないはずなのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ、健康を害してしまう。そのために送り返さねばならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、大都市ではない田舎町には娼妓はいなかった。当時は玄人くろうと女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも、一般の女性と見分けることができた。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。

というのは、彼女たちは数人で外出してくるのだが民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。スカートの下から下着の裾が覗いている人も多かった。なにかユーモラスだったが、そんなことに関係なく彼女たちは実に明るく楽しそうだった。

その姿からは、今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当するような影はどこにも見出せなかった。

たしかに、昔からの言葉に「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。

明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされたことに変わりはなかった。先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいる、という話はしばしば聞いた。

騙された女性は本当に気の毒だが、なかにはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と、兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。また、それを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じたゆえの笑えない喜劇でもある。

ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であったたしかな事実である。

私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠いりょうしょうにいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。

三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。

貯金をすることは給料の僅かな兵士たちにとってあまり嬉しいことではなかったが、上司からしつけとして教えられている手前、せざるを得なかったのが実情だった。

私も初年兵として一カ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

一人の兵士がそれぞれ三等分して使ったわけではないだろうが、人間の三大欲は食欲と睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測ったような数字である。

どう考えても商行為

ちなみに、当時の給料は兵は一カ月平均十三円ほどで、その三分の一を約四円として計算すると、三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」「隼」といった戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站へいたん(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で、「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見出したが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。

これでは、誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「あんた親戚だっか、それともいくらか貰うてまんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

騒ぐ連中の狙い

次に、軍関与の暴論について証言する。

私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦とちょうど一カ年、一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出のたびにお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が貯まったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。

私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。「慰安所」は、連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に、候補生だけで本部の衛兵勤務(警備する勤務)に就くことになった。もちろん勤務は二十四時間である。

私は営舎係だったので歩哨に立たないから、何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域のなかに「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時、戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装塡そうてんし、夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿のはずである。その将兵を守るべき責任が部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院があるはずがない。性病予防のため、軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙へんぴな場所だから部隊に頼る以外、方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた(勧めてくれるお茶は飲まなかったが、任務以外の会話は少々守則違反だ)。いまでも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって、娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然、変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、いまさらこれを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ、わめき散らしていれば何かが得られると狙っているということだ。

戦場の「自然の摂理」

戦場に身をさらし、敵弾の洗礼を受けた者として、同じ戦友たちの名誉のために最後に言っておく。彼女たちを性的奴隷としてしいたげたのではなく、それ相応の代価を支払ってのことだった、と。

このことだけはたしかだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れる者が他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。

彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。現実は少ない給料のなかから、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。

買うから売るのか、売るから買うのかはともかく、現在も夜の街に溢れているように、地球上に人間が存在する限り、誰も止めることのできないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とするさがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたというだけのことである。

こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍のほうではないのか。

出典:『WiLL』2014年11月増刊号p.56に転載
初出:「従軍慰安婦」の正体、『正論』2005年1月号