第Ⅰ部 現代史では〈思いこみ〉が横行している
山口洋一著『〈思いこみ〉の世界史』(平成14年)p.81~
今日トルコについて取沙汰されている様々な問題をめぐっては、もっぱらトルコの側に非ありとする歪んだ認識が虚像となって一般化しており、「悪いのはトルコ」とする誤ったイメージが広く世界に定着している。アルメニア人虐殺、クルド問題、キプロス紛争、ギリシャとの領域についての確執等をめぐり、非難の標的とされるのは、常にトルコである。しかし、それは往々にして、不正確な認識や誤解に基づくいわれなき言いがかりである場合が多い。トルコに関する無理解や歪んだ認識がまかり通ってきた背景には、ヨーロッパの人たちが抱く彼ら独特のトルコ観があり、これに基づく彼らの独善的な対トルコ認識が元になっている。つまりトルコをめぐる彼らの〈思いこみ〉が元凶となり、これが虚像を定着させる結果を招いているのである。
そこで、まずトルコ非難の種となっている個々の問題をとりあげ、そのひとつひとつについて、世間一般に流布している虚像がいかに現実と乖離しているかを解明してみたい。その上で、虚像がもたらされるに至った背景、すなわちヨーロッパの人たちはトルコについてどのような〈思いこみ〉に陥っているのか、それに基づいていかなるイメージをトルコに対して抱いているのか、なぜ彼らのトルコ認識が決定版として世界に通用するようになってしまったのかといった事情について考えてみることにしよう。
アルメニア人が歴史的にアルメニアと呼ぶ地域は、主張により異なるが、概ね東アナトリア(小アジア東部)からアゼルバイジャンまでの一帯を指す。この地は、古くはペルシャとの結びつきが強かったが、七世紀にはアラブが征服し、九世紀になると、東部にバグラト朝アルメニア王国、西部にアルツルニ家のヴァスプラカン王国が成立した。やがて両王国は一一世紀にビザンチン帝国、次いでセルジューク朝の支配を受けるところとなり、この間、アルメニア人のシリア、エジプトへの移住が盛んに行われた。その後一六世紀から二〇世紀初頭までは、オスマン帝国がその大部分を、ペルシャが北東の一部を支配下に置いた。こうした中、多くのアルメニア人は両国の首都に移住し、外国貿易をはじめ、多方面で活躍した。オスマン帝国領内のアルメニア人は、一九世紀末から第一次世界大戦にかけて、大量に殺害され、逃亡する者が多数にのぼった。この時ジェノサイドが行われたかどうかをめぐり、トルコと西欧諸国との言い分は大きく異なっており、外交関係にも影響を及ぼしかねない論争の種となっている。
二〇〇一年一月三〇日フランスのシラク大統領は、オスマン帝国時代、一九一五年に起きたアルメニア人の大量殺害を「民族虐殺」と認定する法律を布告した。すでに上下両院が可決していたが、トルコの反発が強く、最終的に公布を決める大統領の出方が注目されていたのである。これに対して、トルコは一段と反発を強め、エジェビット首相は政治面、経済面でフランスとの関係を見直す考えを示した。トルコ国防省は仏企業と結んだ軍事衛星の発注契約を一方的に破棄し、フランスとの戦車共同生産事業の推進や戦闘機改良計画への仏企業の参入などにも待ったをかけた。フランス産穀物買い付けのための入札も中止となった。トルコはEU加盟の実現をめざしているおり、この問題が加盟問題に影を落とす危険すらあるにもかかわらず、毅然とした態度で自国の立場を貫いているのである。 私はこれを報じる新聞記事を読みながら「なんとしつこくこの問題が蒸し返され、トルコへの嫌がらせが繰り返されることか」といささか辟易とした、やりきれない思いを新たにした。
これと同様の事態は、米国でもブッシュ(父)大統領の時代に起きている。米国の議会において、オスマン帝国によるアルメニア人大量虐殺の追悼紀念日を設けようとする決議案が審議され、トルコ政府はこれに反発して対抗措置に出る構えを見せ、米土防衛・経済協力協定破棄すら匂わせて、米土関係は危殆に瀕する瀬戸際の状態に立ち至った。この協定は軍事面をはじめとする米土間の幅広い協力関係の枠組みを定める、極めて重要な基本協定で、まさに日米間の日米安保条約に相当する。幸い湾岸戦争が始まる少し前、一九九〇年初めに決議案は僅差で否決され、米土関係の危機は回避されたのである。
この問題は大変に根が深い。今回のフランスの法律では、オスマン帝国時代の末期、一九一五年に発生した殺害事件に焦点を当てているが、同様の事態は一八九五年から九六年にかけても生じているし、その他にも多数の死者を出したトルコ人とアルメニア人との衝突事件は何回か起こっている。こうして、この問題は欧米諸国によるトルコ・バッシングには、常に打ってつけの材料とされてきた。
本来オスマン帝国領内のアルメニア人は一九世紀半ばまでは平和に生活していた。彼らはアナトリア東部では主として農業、都市部では商業、金融業、貴金属商を経営する者が多く、概して裕福で善良な民であった。帝国の近代化を目指したタンジマットの勅令(一八三九年)以降は、上院議員や大臣になる者もあった。
ところが、やがて欧州列強の帝国主義的覇権争いが激しさを増すにつれて、事態は大きく変化せざるを得なくなる。オスマン帝国をめぐる各列強の利害が交錯する中で、第十次露土戦争(一八七七~七八年)に勝利したロシアは、オスマン帝国との和平条約としてサン・ステファノ条約を成立させた。これはほぼ全面的にロシアの要求に沿った内容の条約であったため、たちまち他の列強の干渉を招くこととなり、これに代わって七八年七月、英、仏、独、墺、伊、土の間でベルリン条約が調印された。オスマン帝国にとって、サン・ステファノ条約の厳しさはこの条約によってある程度緩和されたものの、これ以降第一次世界大戦までの間、帝国の内外政策はベルリン条約の諸規定により根底から揺さぶりをかけられることとなった。
ベルリン条約にはアルメニア人について、「アナトリア(小アジア)東部のアルメニア人居住地域において、遅滞なく改革を実施するとともに、アルメニア人をクルド人やチェルケス人から防護すべきものとする」との条項が設けられた。そして、各列強はそれぞれの思わくから、この規定を援用して、様々な改革を行うようオスマン帝国に圧力をかけ、実施を迫った。この当時、アナトリア東部を指してアルメニア地方と称したのは単に過去の歴史上の事実を述べたにとどまり、同地方のアルメニア人は東部いずれの州でも五%~二〇%に過ぎない少数民族で、トルコ人とクルド人が多数を占めていた。したがって、列強が次々に強要してきたこの地方の改革は、スルタンにとっては少数民族を優遇して増長させ、多数民族の不満を買う無理な要求でしかなかった。実情を無視したこのような要求に従えば、かえって国内に混乱を招くことになりかねない。それまで平穏だったアルメニア人居住地域に列強の思わくが摩擦の種を蒔いたのである。
中でもロシアは、当初オスマン帝国内に、アルメニア人の自治国をつくって独立させる野望を抱いた。これによって、コーカサスからアルメニア経由ペルシャ湾への南下を企図したのである。他の列強はロシアの思わく通りに事が運ばないよう、ロシアを牽制して様々な働きかけをしてきた。
他方、ロシアがイランから奪ったロシア領内コーカサスのアルメニア地方ではアルメニア人が多数民族であり、アルメニア人が独立を目指してロシアへの反抗の動きを見せていた。そして、ここで弾圧されたアルメニア人ナショナリストたちの一部はオスマン帝国に潜入し、アナトリア東部のアルメニア人を煽動し、脅迫しはじめたのである。
事が起こったのは、このようにオスマン帝国が西欧植民帝国主義諸国の覇権争いに翻弄され、「ヨーロッパの病人」と呼ばれて、列強の野望の格好のターゲットにされていた時代である。瀕死のオスマン帝国はなんとかその命脈を保つために、必死でもがき苦しんでいた。こうした状況下、反国家的な動きに走るアルメニア人過激派の行動を抑制するために、やむを得ずとった措置が、殺害を招く結果となったのである。特に、第一次大戦時の一九一五年の場合には、帝政ロシアとの戦争に際し、ロシア側に傾斜するオスマン帝国領内のアルメニア人に強制移住などの措置を講じようとして、大量の犠牲者が出ることとなった。オスマン帝国が生存を賭けて、悪戦苦闘している状況下、殊に戦時の非常事態のもとで、このようなケースが発生するのはある程度やむを得ない。アルジェリアで独立戦争当時フランスが行った大量殺害や、イスラエル軍のレバノン侵攻の際(一九八二年)にパレスチナ難民キャンプで起きたキリスト教民兵による虐殺事件など、類例には事欠かない。しかもオスマン帝国の場合、犠牲となったのはアルメニア人側ばかりでなく、アルメニア人によるトルコ人の殺害も決して少なくなかったのである。
私はトルコに在任中、国立ヴァン大学での講演の依頼を受け、イラン国境に近い東部の町ヴァンに出かけたことがあった。講演を済ませた後、学長先生自らのご案内で、ヴァン市内や近郊の主だったところを見学させていただいたが、真っ先に連れて行かれたのが博物館であった。ところがこの博物館、入場して先ず足を踏み入れる一階正面の大ホールには、ずらっとガラスのショーケースが壁面にはめ込んで造り付けられており、そこに人の白骨が山となって展示されているのである。その脇には数多くの写真パネルが並べられて、無残な虐殺現場の様子が生々しく残されており、キャプションには「○年○月○○村がアルメニア人に襲撃されて村人が一人残らず虐殺された」といった説明が記されている。展示されている全ての記録が、例外なくアルメニア人によるトルコ人の虐殺なのだ。この地方の人たちの意識では、アルメニア問題といえば、かつてトルコ人がアルメニア人に大量殺害された事件だとの理解なのである。
以上のような事情は、トルコ側が国際社会に対していかにこれを説明しようとも、耳を傾けられることなく、トルコは悪者と決めつけられ、非難を浴びてきた。欧州各国は公平な立場から事態の真相を客観的に捉えようとせず、アルメニア側の言い分を鵜呑みにして、トルコを悪者に仕立てようとする傾向が強かった。
事件発生当時、ヨーロッパ各国は大使館の報告に基き、あるいは各国が現地で集めた資料をもとに判断を下し、彼らの見解を持つに至ったわけだが、もともとトルコは悪者との先入観を抱くヨーロッパ人は、〈思いこみ〉により、偏った、不正確な判断を下すことが多かった。「ラッパの合図のもとに襲撃が開始され、先ず殺戮、次いで略奪の順で進行した」といった報告が寄せられると、これがたまたま偶発的に生じた孤立したケースではないか吟味することもなく、「計画性をもって、組織的に行われたものであり、トルコ政府の責任は明らかだ」と断定してしまうといった類の早とちりである。
そればかりか、虐殺の犠牲者の数についても、針小棒大に誇大な数字があげられてきた。例えば、一九一五年のケースについて、トルコ政府もアルメニア人に犠牲者が出たことは認め、三〇万~五〇万人が死亡したとしているのに対し、アルメニア側は一五〇万人が殺されたと主張している。そして、国際社会ではトルコの言い分ではなく、一五〇万人の方が広く受け入れられる傾向にある。ちょうど旧日本軍の南京事件で三〇万人が虐殺されたとする中国側の宣伝が、物理的にも不可能な、あり得ない数字であるにかかわらず、大手を振って一人歩きしているようなものである。
アルメニア人虐殺問題と称される事態の真相は以上の通りであるが、私はアルメニア人虐殺がなかったなどと言うつもりは毛頭ない。それは疑いもなく厳然たる事実だ。いわんやアルメニア側の主張を退けて、トルコの肩を持とうとするものではさらにない。しかし生じた事態は、公平、不偏の立場から客観的に受けとめ、ありのままの真実が語られるべきだ、ということを強調したい。
ところが、この問題については、(イ)どのような状況のもとに、何ゆえ発生したのか、どのようにして殺害が行われたのか、といった発生時の模様について、事実関係が正確に捕えられることなく、(ロ)アルメニア人犠牲者の数が誇大に宣伝される一方、(ハ)トルコ人犠牲者についてはほとんど触れられない、というのが実際の状況なのである。このように事実が歪められた形で伝えられるのでは、「トルコは怪しからん」という見方が定着し、反トルコ的イメージが形成されることになってしまう。
なぜそのようなことになるのか。トルコが悪者に仕立て上げられて、非難の的とされるのは、この問題に限らず、次に述べるクルド問題やキプロス紛争等でも常に見られる傾向だが、それはなぜなのか。この点については、後に詳しく触れるが、その理由は一にかかって、こうした問題をめぐる欧米諸国の歪められた認識に由来しているのである。欧米で歪んだ認識が一般化すると、圧倒的な情報発信力を備えた欧米のマスメディアを通じて、たちまち彼らの認識が国際的スタンダードとして定着してしまい、トルコの言い分など誰も耳を傾けなくなってしまう。
いったん〈思いこみ〉にとりつかれると、公正で、客観的な判断力がいかに曇らされ、偏った、歪んだ認識がもたらされることになるか、改めて痛感させられる。
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近年、世界の与論形成に圧倒的な力を発揮してきたのは欧米諸国の発言力である。国際関係における軍事的、政治的、経済的な力関係から、彼らの言い分が、そのまままかり通ってしまうことが多い。国連を実質的に牛耳る安保理常任理事国は五ヵ国中、唯一中国を除いてすべて白人国家で占められている。しかも彼らは強大なマスメディアという武器をもち、これを駆使している。欧米諸国の認識、見解、立場、政策を反映してなされる欧米メディアの報道は、そのまま世界の与論形成に大きな影響を与えてきた。それでも冷戦中は東西両陣営が相互に競ってプロパガンダの火花を散らしてきたが、冷戦終結後は、世界の与論操作がますます欧米メディアの独壇場となる傾向を強めている。
この状況はトルコについてもそのまま妥当する。トルコをめぐる歪んだ認識は、欧米諸国のトルコ観を反映して形成されており、こうしてもたらされるトルコ・イメージが広く世界に定着してしまっている。
しかも、欧米において個々の問題との関連で、トルコをどう理解し、どういう見方をするかという具体的見解の形成過程では、欧米内にトルコ・ロビーが存在しないことがトルコに不利に作用している。ロビーとは特定の利害関係を持ち、事態を自分たちに有利な方向に進めるよう、様々な働きかけを行う圧力グループだが、往々にしてトルコと対立的立場にあるギリシャやアルメニアが欧米諸国の政界、財界、言論界に食い込み、強力なロビーを形成しているのに対して、トルコにはそれがない。結局、好意的なトルコ観形成に向けての働きかけは行われずに、逆にトルコ非難のキャンペーンばかりが幅を利かし、結果的にマイナス・イメージに拍車がかかることとなる。
このような状況の中で、欧米諸国はトルコを一体どのように受けとめているのであろうか、彼らの間で一般的に抱かれているトルコ観とは、どのようなものなのかを見てみよう。欧米のトルコ観を考える場合、アメリカ人は基本的にはヨーロッパ人の認識をほぼそのまま共有すると見られるので、以下の考察ではヨーロッパ人を主体に検討する。
われわれ日本人は「トルコ」と聞いても、別段他の外国と異なって、この国を特別視することはないが、ヨーロッパの人にとっては、「トルコ」は特別の感慨を呼び起こす独特の意味合いをもった国なのである。彼らは「トルコ」に対して、敵愾心とは言わないまでも、ある種の対抗意識を感じ、対決感情を呼び起こし、一定の距離を置いて、身構えた姿勢をとる。少なくとも、トルコ人を自分たちと分け隔てのない身内として受け入れるような仲間意識はもっていない。それはヨーロッパが長年にわたって経てきたこの国との歴史的な係わり合いから生まれた、彼ら独特の感情なのである。この独特の感情とは一体どのようなものなのか分析してみると、それは次の三つの要素から成り立っているように思われる。
具体的に見てみよう。
今日、トルコ共和国の領土の九七%を占めるアナトリア(小アジア)の地においては、古来、プロト・ヒッタイト、ヒッタイト、アッシリア・コロニー、フリギア、リディア、ペルシャ、古代ギリシャ、ヘレニズム、ローマ帝国、ビザンチン帝国と、数々の民族が栄枯盛衰を繰り返してきた。トルコ国内いたる所で、各国の考古学チームが行っている発掘作業の現場では、何層にも重なっていろいろな民族の遺跡が掘り出されている。シュリーマンの発掘で有名なトロイの遺跡に至っては、なんと九層にもわたって都市跡が積み重なっているのである。
このようなアナトリアの地に、中央アジアの遊牧騎馬民族であるトルコ族が本格的にやってきたのは、たかだか一一世紀のことに過ぎない。やがて、ルーム・セルジューク王朝(一〇七七~一三〇七年)を経て、一二九九年に建国されたオスマン帝国は急速な発展をとげ、一四五三年にはついにコンスタンチノープルを攻略して、ビザンチン帝国を滅亡に至らしめた。さらに波に乗ったオスマン帝国は、バルカン半島を完全に制圧して、ハンガリーまでも征服し、一時はウィーンを陥落寸前にまで追い込む勢いを示した。
こうして、古代ギリシャ、ヘレニズム、ローマ帝国、ビザンチン帝国と、長きにわたってヨーロッパ勢力の支配下にあったアナトリアの地は、完全にオスマン帝国の支配するところとなった。イスタンブールに数多く残されたビザンチン帝国の遺跡はもとより、トロイ、ベルガモ、アフロディジアス、アスペンド等々、ヘレニズムや古代ローマやビザンチンの遺跡は、特にマルマラ海、エーゲ海及び地中海沿岸の一帯を中心に無数に点在している。さらに黒海円買いのシノップやアマスラにも、ビザンチンやジェノバ植民地の遺跡があり、トラブゾンはかつてビザンチンの分身としてトレビゾンド(トラベズンド)帝国コムネノス王朝がこの地に自立していた(一二〇四~一四六一年)名残りをその名にとどめている。
バイロンを挙げるまでもなく、ヨーロッパの人たちにとって、古代ギリシャ、ヘレニズム、ローマ帝国はヨーロッパ文明発祥の源と考えられている。ながらくヨーロッパの知識人にとっては、ホメロスやウェルギリウスの名句を自由に引用できることが、教養のバロメーターだった。ちょうど、かつての日本の教養人が漢詩に通じていたのと似ている。そして、古代ギリシャ、ヘレニズム、ローマ帝国、ビザンチン帝国の文明はまさにこのアナトリアの地に花咲いたのである。
したがって彼らは、ヨーロッパ文化のおおもとが栄えていた自分たちの庭に、中央アジアからやってきた遊牧騎馬民族がどやどやと踏み込んできて、居座ってしまった、すなわち本来自分たちの土地だった所へトルコ族が闖入してきたという意識を持っている。このトルコ族闖入意識がヨーロッパ人のトルコ観を特徴づける第一の要素である。
未だかつて、外国の侵略者による長期間の占領という経験を持たない島国、日本に住むわれわれにとっては、ヨーロッパ人のこのような感情は理解し難いかもしれない。仮に、蒙古襲来(一二七四年文永の役、一二八一年弘安の役)の時、鎌倉武士の善戦空しく、高麗軍を率いてやってきたフビライ・ハンの軍勢が勝ちをしめ、九州が大陸勢力の支配下に置かれたまま今日に至っているとしたらどうであろうか。日本人は、心中穏やかではいられないに違いない。こんな状況を想像してみれば、ヨーロッパ人の心理状態に察しがつくかもしれない。
長らくヨーロッパでは、親が泣く子を黙らせるには、「泣き止まないと、トルコの兵隊がやってくるよ」と言って聞かせてきた。オスマン帝国がとっくになくなった今日でも、「トルコ兵はこわい」というイメージは消えることなく、こうした言い方は続いている。「トルコ兵」が恐ろしいものの代名詞となっている。このように、ヨーロッパの人たちのトルコ観に強い影響を与えている二つめの要素は、オスマン帝国の軍事的脅威である。
一四五三年にコンスタンチノープルを陥落させ、一六世紀に最盛期を迎えたオスマン帝国は、バルカン全域からハンガリーまでも勢力下におさめ、ウィーンも二度にわたって包囲を受け、落城寸前まで追い詰められた。オスマン軍の強さはヨーロッパの人たちを震え上がらせた。特に勇猛果敢なイェニチェリ軍団の名声はヨーロッパの隅々にまで鳴り響き、人々に恐怖心を植え付けた。その後、帝国は徐々に衰退の道を辿ったとはいえ、長年の間、ヨーロッパの人たちにとって、オスマン帝国の軍事的脅威という悪夢は、容易に消え去らなかった。
オーストリアのグラーツの大聖堂には、一五世紀の有名な画家フォン・ビラッハの絵が飾られているが、この画家が自分の絵の裏にいたずら書きを残しているのが最近発見された。曰く「神よ、ペストといなごとトルコ人から守りたまえ。」人を根絶やしにするペスト、作物を食い尽くすいなごと並んで、当時のオーストリアの人たちにとっては、トルコ人が何よりも怖かったのである。
オスマン帝国に対してヨーロッパ人が抱いていたこのような軍事的脅威感は、今日に至るまで尾を引いており、これが彼らのトルコ観の中に入りこんでいる。トルコ外務省の人に、私から「日本とアジアの国々との関係では、第二次大戦当時の過去の出来事をほじくり返して、未だに教科書問題や従軍慰安婦問題など、事あるごとに蒸し返されており、依然として戦争の後遺症が尾を引いている」という話しをすると、「第二次大戦はたかだか五〇~六〇年前のことだが、自分たちトルコ人は、さらに遡ってオスマン帝国時代のことを今だにヨーロッパ人からとやかく言われ、ヨーロッパを恐怖の渦に巻き込んだ恐ろしい存在だった昔の話をよく聞かされる」といった反応が返ってくる。
さらにもう一つ、ヨーロッパ人のトルコ観に決定的な影響を及ぼしている重要な要素がある。キリスト教とイスラム教の間に根強く続いてきた対立感情である。
ヨーロッパ人の人たちにとって、宗教と言えば、キリスト教と並んで、ユダヤ教とイスラム教を思い浮かべる。この三つの宗教はいずれも一神教であり、いわば同根、同系統の宗教と考えられている。天地創造伝説やノアの
一神教以外の仏教とかヒンズー教とかラマ教といった多神教は、ヨーロッパ人の受けとめ方としては、全く別系統で、邪教と観念するか、宗教として認識しない人さえいる。いわんや
他方、ユダヤ教とイスラム教はキリスト教と同根、同系統であるだけに、これに対する対抗意識が持たれ、ことにイスラム教に対してヨーロッパ人が抱く感情は、対抗意識が高じて、警戒感、敵愾心に近いとすら言い得る。同じ一神教である三宗教同士の関係だけに、それぞれが排他性を強くもっており、対立が先鋭化するのである。
現に、キリスト教徒とイスラム教徒の間では、同根の宗教なるが故に、聖地をめぐる対立抗争が絶えず、中世における、度重なる十字軍の遠征となり、血なまぐさい争いが繰り広げられた。こうして、十字軍はキリスト教徒とイスラム教徒の対立感情を一段と煽ることとなり、その血塗られた抗争の歴史を通じて、両者の間には、抜き差しならない敵対感情が植え付けられたのである。
実際、イスラム世界の支配地域内に存在するキリスト教の聖地たるや、数えきれない程たくさんある。聖地エルサレムが、かつてのオスマン帝国領内にあったことは言うまでもないが、今日のトルコ共和国の領土内だけに絞ってみても、キリスト教ゆかりの史跡は夥しい数にのぼっている。
ノアの方舟が漂着したと言われるアララット山(トルコ語ではビュユック・アール・ダー)はトルコの東端に聳え立つ最高峰で、ヴァン湖の遥か北東方向に海抜五一六五メートルの威容を誇っている。
トルコ南部の町シャンル・ウルファは、預言者アブラハムの生まれた町として知られている。時の暴君ネムルートは間もなく生まれてくる赤子の中に、やがて自分の滅ぼす人物がいるとの占い師の言を信じ、町じゅうの赤ん坊をすべて殺させてしまう。しかし、アブラハムを身ごもった母親は、とある洞窟に身を隠して彼を産み、一〇歳になるまでそこで彼を育てたと言われている。やがて長じたアブラハムは暴君ネムルートに反抗して立ち上がり、邪教の神殿にある偶像をかたっぱしから壊しにかかるに及び、ネムルートは彼を捕えて、断崖の上に連れて行き、下に燃え盛る火の中に突き落としてしまう。その瞬間、神が「火よ、アブラハムを優しく守り、冷たくなれ」と命じたので、火はたちまち水に変じたと言い伝えられている。シャンル・ウルファには、アブラハムが生まれた洞窟も、アブラハムが突き落とされたと言われる断崖も残されており、観光名所になっている。さらに断崖から落された時に、下で燃えさかっていた火が転じて水となってできたとされる池には、鱒のような魚が群れ泳いでいるが、これは聖なる魚とされており、誰しも決して捕まえて食べたりはしないとのことである。
使徒ペテロが布教活動を行ったのは、シリアとの国境に近いアンタキア(アンチオキア)で、ここにあるペテロの教会は、今日ではやはり観光名所となっている。山すその岩をくりぬいて造った岩窟の教会で、その簡素な趣は訪れる人の心を打つ。
聖母マリアが最後に息を引き取ったのも、アナトリア西部のエーゲ海岸にあるエフェソス近郊の地で、小高い山の中腹に聖母マリアの教会がひっそりとした佇まいを見せている。
「サンタクロースはとなかいの橇に乗って」という触れ込みで、フィンランドとか北欧の国が、われこそはサンタ発祥の国と名乗りをあげているのは、どうも歴史的には眉唾もののようである。サンタクロースが四世紀初めに活躍し、殉教したのは、トルコ南部、地中海岸の町デムレである。その後六世紀になって、ここに建てられたセント・ニコラスの教会は、度重なる破壊と修復を経つつも、今日その素朴な佇まいをとどめて残っており、これまた観光名所となっている。この教会には、セント・ニコラスの墓があるが、納められていた遺骨は、一一世紀にこの地にやってきたイタリアの商人が持ち去ってしまい、唯一残された聖人の顎の骨だけが、アンタリアの博物館に展示されている。
こうして、キリスト教世界とイスラム世界との間には、強い対抗意識が根付いているが、ヨーロッパ人のイスラムへの対立感情が、特にトルコ人に集中的に向けられているのは何故なのであろうか。それは、オスマン帝国のスルタン=カリフ制と密接に関係している。この大帝国に君臨する首長は、俗世界の長たるスルタンであるばかりか、一五一七年以降は、イスラム世界の精神的な最高指導者たるカリフの地位をも兼ね備えてきたのである。一五一七年にカイロを征服してマムルーク朝を滅亡させたセリム一世は、それまでアッバース朝の末裔をカイロに迎えて、形式上続けられてきたカリフのアル・ムタワッキルをイスタンブールに拉致して幽閉してしまい、自らカリフの尊称を受け継いでしまった。これはオスマン帝国のスルタンが、イスラム世界において精神面でも君臨し、イスタンブールがイスラム世界の心臓部となったことを意味するものであった。
このようなスルタン=カリフ制の故に、オスマン帝国のスルタンは同時にイスラム世界全体を代表する宗教上の首長と見なされることとなり、キリスト教徒のイスラムへの対抗意識が、そのままオスマン帝国に対する欧州人の意識に反映され、それが今日の彼らのトルコ観にまで尾を引いているのである。
ヨーロッパの人たちが抱いているトルコ観を三つの角度から見てきたが、これはいずれもヨーロッパとトルコ(オスマン帝国)の長い歴史を通ずる係わり合いからもたらされたものである。いわば欧州人が先祖代々受け継いできた、本来的なトルコ観であり、彼らの遺伝子の中に組み込まれた見方だと言っても過言ではない。
ところが、冷戦終結後の今日、依然この先祖伝来のトルコ観は変わらずに続いているのに加え、さらに新たな変化が起き、トルコに対する風当たりは一段と厳しさを増してきている。この変化とは、とりもなおさず、すでに述べた西洋的価値観至上主義の風潮が冷戦後高まりつつある事態に他ならない。この風潮が高まる中では、バッシングの鉾先を向けるスケープゴートに狙いを定めてこれを徹底的に叩かないと、欧米の与論が満足しない。スケープゴートとするのに好都合なのはどのような特徴の国かについてすでに触れたが、トルコはこうした観点から合格点なのに加えて、右に述べたヨーロッパ人が本来的に抱くトルコ観があるので、スケープゴートには願ってもない、お誂え向きの国なのである。
こうして冷戦後、トルコ・バッシングは一段と激しくなった。冷戦末期にはトルコのEU(当時のEC)加盟が実現するのは時間の問題とすら言われていたのが、冷戦が終わったとたんに、すっかり可能性が遠のいてしまった。クルド問題を初め種々の問題をめぐって展開されている、反トルコ・キャンペーンも一段と執拗に、厳しく行われるようになっているのである。